肩を噛まれた少年は、慌てて未熟な拳にありったけの力を込めて、竜の青年の頭を殴った。
「いてっ」
竜の青年が、少年に殴られると思っていなかったのは明白だった。
とはいえ、人間の少年も初めて人を殴った。加減など分からない。
殴った感覚は薄いものの、竜の青年は背中を向けていじけている。
大きなたんこぶをひとつ作った、竜、もといヒトのかたちをした青年は、案外あっさり引き下がった。
「なんだよ、人間のくせに」
格好がつかないのか、少年への興味が尽きたのか、どちらもかもしれなかった。
ぶつぶつ言いながら、いじけたように背を向けて、ブチブチと花を毟っている。
もう、反撃してくる様子はなかった。
その背は広く、体格に恵まれている。
思い出したように脱皮しかけた尻尾を撫で、
また花をちぎり、舞ってきた蝶に気を移す。
気の多さはその子猫や子犬を思わせた。
少年は立ち去るか迷ったが、竜の青年に声をかける。
「ねえ」
竜の青年に、少年の影が落ちる距離。
いじけた竜の背中が、ふと振り向く。
「そのしっぽ…竜なの?」
竜の青年はにやりと微笑む。
「そうだよ。すごいだろ」
「うん。初めて見た」
「…もっと近くで見る?」
「うん!」
わくわくと、きらきらと熱を持ったまっすぐとした瞳を向けた少年に
竜の青年は気を良くしたのか、向き直って自分の隣に座るよう勧めた。
「特別に名前をおしえてやろう!
僕の名前はヘリル!
祖先は誇り高き竜族。僕はその子孫だ。」
「僕はウィリアム。長いからウィルって呼ばれてる」
人懐こいウィルの好奇心は、ひとの警戒心を解くらしい。
ヘリルは暖かな心地がして、ウィルをより近くに招いた。
「しっぽ、触っていいよ」
「ほんと?」
脱皮しかけた竜の皮はなめらかで、
光を受けて蜻蛉の羽のように透けて輝いている。
よくみれば、尻尾の先が乾燥してすこし破けていた。
覗き見の男二人が懸念していたのが、この傷らしい。
「痛くないの?」
「剥けたところだから痛くない。
けど、上手に剥けなくて練習してるんだ。
ぼく、脱皮苦手なんだよね」
「そっか…」
ウィルがすこし悩んだ様子で尻尾をやさしく摘んでいる。
ヘリルは初めて間近で見る人間の横顔をじっと見ていた。
だから、ウィルの提案に気づくのに時間がかかった。
「それ、僕がやっていい?」
そこからはあっという間だった。
ウィルは慎重に泉の水で竜のしっぽの皮を湿らせ、
しっぽのつけ根にはたっぷりのクリームを塗った。
ヘリルは興味深げに見ていたが、首が回りきらない箇所については、
もぞもぞと動くのをウィルにたしなめられた。
ヘリルのちぇっ、という声を背中に浴びながら、
ウィルがひととおり竜皮に水分を与え終えると、
付け根から中腹の膨らみにかけて、するりと竜皮を脱がせた。
ヘリルがくすぐったそうに笑い終えた後、
しっぽの中腹まで脱げた竜皮を見て、驚いたように声を上げる。
しっぽのいちばん太い箇所を越えて、先端まで慎重に脱がせ、
大きな一枚の袋のような竜皮ができあがった。
「わ、綺麗!やるじゃん、人間。
僕が自分で脱ごうとすると、しわしわでぐちゃぐちゃで、
あちこち破れちゃう。」
「へへ。まあね。」
「ん?でも人間は脱皮しないでしょ?
竜だって人里には降りないはずだ。
僕みたいに、練習なんかできないだろ?
どうやってこれを練習したの?」
「これは父さんが、むかし教えてくれた。
金持ちの蛇の脱皮をときどき手伝うんだ。
それでけっこう金になる。」
「へえ、いいお父さんだね。」
褒め言葉を受け取って、
ウィルは父を思い出して寂しげに笑った。
ふっとウィルの顔に暗い影が射したのを、ヘリルは見逃さなかった。
「なあ、君のお父さんって…」
ヘリルの言いかけたところに、
大きな腹の虫が音をあげる。
ヘリルもウィルも恥じながら腹を押さえ、顔を見合わせて笑った。
「ねえ、これを売っていい?」
「え?そんなもの売れるの?」
ヘリルは怪訝な顔をして、ウィルとしっぽを交互に見遣る。
「竜族には、脱皮した竜皮なんて売れないよ。
食べちゃうか、捨ててるんだけど、僕は捨ててる。
風が運んで粉々になって、いずれ土に還るから。」
ウィルは驚いたような顔をしてヘリルに答えた。
「人間はね、その竜が落とした皮を買ってくれる。
幸運の落とし物だっていって、
状態のいい皮は王室に献上されることもあるんだよ。」
「…うへ。ちょっとキモいな。人間って。」
竜と人間では価値観に差があるらしい。
その価値を理解しない竜族に説くより、
ここでヘリルと別れ、ウィルが一人になってから
竜皮を売り払ってしまう手段もあったが、
ウィルはヘリルになにかを返したかった。
誰かとこんなにたくさん話したのも、
楽しい気持ちになったのも久しぶりだった。
「ねえ、旅人のふりをしてよ!
しっぽを隠して街へ行こう。
これを売って食堂でなにか食べよう」
「は、人間の街へ?行った事ないよ!」
「大丈夫、僕がちゃんとヘリルを案内する。
しっぽを隠すのもフォローするよ。」
ヘリルは戸惑いながらも、ウィルの言うことに従う。
戸惑いは売る事に驚いたからだけではなかった。
竜族が人と交流することなど聞いたことがない。
街へ行ってよいものか。
しかしヘリルにとって、
ここまで進んでヘリルの手を引く柔らかな手を、
邪険に払い除けるのはどうしてもためらわれた。
「食堂の羊肉、すごく美味しいんだよ。」
そのひと言がヘリルの足を軽くした。
彼らの望みにとっては前向きに事態が進んだが、
同時に竜族とヒトの歴史を不安定に揺らがせた、といっても構わない。
ウィルがその気を削いだから。
ヘリルがその気を起こさなかったから。
最悪の事態が気まぐれに避けられているだけで、
本来、ヘリルにとって人間とは、捕食の対象だからだ。