-2-



肩を噛まれた少年は、慌てて未熟な拳にありったけの力を込めて、竜の青年の頭を殴った。

「いてっ」

竜の青年が、少年に殴られると思っていなかったのは明白だった。
とはいえ、人間の少年も初めて人を殴った。加減など分からない。
殴った感覚は薄いものの、竜の青年は背中を向けていじけている。

大きなたんこぶをひとつ作った、竜、もといヒトのかたちをした青年は、案外あっさり引き下がった。

「なんだよ、人間のくせに」

格好がつかないのか、少年への興味が尽きたのか、どちらもかもしれなかった。
ぶつぶつ言いながら、いじけたように背を向けて、ブチブチと花を毟っている。
もう、反撃してくる様子はなかった。
その背は広く、体格に恵まれている。
思い出したように脱皮しかけた尻尾を撫で、
また花をちぎり、舞ってきた蝶に気を移す。
気の多さはその子猫や子犬を思わせた。

少年は立ち去るか迷ったが、竜の青年に声をかける。

「ねえ」

竜の青年に、少年の影が落ちる距離。
いじけた竜の背中が、ふと振り向く。

「そのしっぽ…竜なの?」

竜の青年はにやりと微笑む。

「そうだよ。すごいだろ」
「うん。初めて見た」
「…もっと近くで見る?」
「うん!」

わくわくと、きらきらと熱を持ったまっすぐとした瞳を向けた少年に
竜の青年は気を良くしたのか、向き直って自分の隣に座るよう勧めた。

「特別に名前をおしえてやろう!
 僕の名前はヘリル!
 祖先は誇り高き竜族。僕はその子孫だ。」
「僕はウィリアム。長いからウィルって呼ばれてる」

人懐こいウィルの好奇心は、ひとの警戒心を解くらしい。
ヘリルは暖かな心地がして、ウィルをより近くに招いた。

「しっぽ、触っていいよ」
「ほんと?」

脱皮しかけた竜の皮はなめらかで、
光を受けて蜻蛉の羽のように透けて輝いている。
よくみれば、尻尾の先が乾燥してすこし破けていた。
覗き見の男二人が懸念していたのが、この傷らしい。

「痛くないの?」
「剥けたところだから痛くない。
 けど、上手に剥けなくて練習してるんだ。
 ぼく、脱皮苦手なんだよね」
「そっか…」

ウィルがすこし悩んだ様子で尻尾をやさしく摘んでいる。
ヘリルは初めて間近で見る人間の横顔をじっと見ていた。
だから、ウィルの提案に気づくのに時間がかかった。

「それ、僕がやっていい?」



-3-


 そこからはあっという間だった。
ウィルは慎重に泉の水で竜のしっぽの皮を湿らせ、
しっぽのつけ根にはたっぷりのクリームを塗った。
ヘリルは興味深げに見ていたが、首が回りきらない箇所については、
もぞもぞと動くのをウィルにたしなめられた。

ヘリルのちぇっ、という声を背中に浴びながら、
ウィルがひととおり竜皮に水分を与え終えると、
付け根から中腹の膨らみにかけて、するりと竜皮を脱がせた。
ヘリルがくすぐったそうに笑い終えた後、
しっぽの中腹まで脱げた竜皮を見て、驚いたように声を上げる。
しっぽのいちばん太い箇所を越えて、先端まで慎重に脱がせ、
大きな一枚の袋のような竜皮ができあがった。

「わ、綺麗!やるじゃん、人間。
 僕が自分で脱ごうとすると、しわしわでぐちゃぐちゃで、
 あちこち破れちゃう。」
「へへ。まあね。」
「ん?でも人間は脱皮しないでしょ?
 竜だって人里には降りないはずだ。
 僕みたいに、練習なんかできないだろ?
 どうやってこれを練習したの?」
「これは父さんが、むかし教えてくれた。
 金持ちの蛇の脱皮をときどき手伝うんだ。
 それでけっこう金になる。」
「へえ、いいお父さんだね。」

褒め言葉を受け取って、
ウィルは父を思い出して寂しげに笑った。
ふっとウィルの顔に暗い影が射したのを、ヘリルは見逃さなかった。

「なあ、君のお父さんって…」

ヘリルの言いかけたところに、
大きな腹の虫が音をあげる。
ヘリルもウィルも恥じながら腹を押さえ、顔を見合わせて笑った。

「ねえ、これを売っていい?」
「え?そんなもの売れるの?」

ヘリルは怪訝な顔をして、ウィルとしっぽを交互に見遣る。

「竜族には、脱皮した竜皮なんて売れないよ。
 食べちゃうか、捨ててるんだけど、僕は捨ててる。
 風が運んで粉々になって、いずれ土に還るから。」

ウィルは驚いたような顔をしてヘリルに答えた。

「人間はね、その竜が落とした皮を買ってくれる。
 幸運の落とし物だっていって、
 状態のいい皮は王室に献上されることもあるんだよ。」
「…うへ。ちょっとキモいな。人間って。」

竜と人間では価値観に差があるらしい。
その価値を理解しない竜族に説くより、
ここでヘリルと別れ、ウィルが一人になってから
竜皮を売り払ってしまう手段もあったが、
ウィルはヘリルになにかを返したかった。
誰かとこんなにたくさん話したのも、
楽しい気持ちになったのも久しぶりだった。

「ねえ、旅人のふりをしてよ!
 しっぽを隠して街へ行こう。
 これを売って食堂でなにか食べよう」
「は、人間の街へ?行った事ないよ!」
「大丈夫、僕がちゃんとヘリルを案内する。
 しっぽを隠すのもフォローするよ。」

ヘリルは戸惑いながらも、ウィルの言うことに従う。
戸惑いは売る事に驚いたからだけではなかった。
竜族が人と交流することなど聞いたことがない。
街へ行ってよいものか。
しかしヘリルにとって、
ここまで進んでヘリルの手を引く柔らかな手を、
邪険に払い除けるのはどうしてもためらわれた。

「食堂の羊肉、すごく美味しいんだよ。」

そのひと言がヘリルの足を軽くした。
彼らの望みにとっては前向きに事態が進んだが、
同時に竜族とヒトの歴史を不安定に揺らがせた、といっても構わない。

ウィルがその気を削いだから。
ヘリルがその気を起こさなかったから。
最悪の事態が気まぐれに避けられているだけで、
本来、ヘリルにとって人間とは、捕食の対象だからだ。




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